『ダイエットが上手くいかないのは、あなたのせいじゃない」ーHSPや繊細な人たちのための「脳からやせる」ダイエットー』を読んで【第一章】
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目次
1この本を読むきっかけについて
私は、自称HSPで、診断を受けたり、どこかで相談をしたりしたわけではないですが、日常の中で困り感を感じていました。「生きにくさ」をどこかで感じながら生活しているところがあります。「この原因は何か?」と考えても自分が弱いからダメなのだと自己否定することしか答えを見つけられませんでしたが、この「HSP」という用語を知ってから、自分がHSPだと認めると、困り感や行きにくさに対し、説明を付けられるようになりました。
例えば、地下街など、人の気の多いところで具合が悪くなったことがあります。貧血のような症状になって、周囲の方にご迷惑をおかけしてしまいました。
道を歩いていた時に、前方から怒って早足で歩いてくる人とすれ違った時に、とても自分の胸が苦しくなったこともあります。
挙げればキリがないのですが、今思えば、人がたくさん集まる職場で、長時間勤務していた時に、「もうこれ以上耐えられない」という心境になって退職してことは、今思えば無理のない話でした。
自分ではこの、HSPという特性が私の個性であり、大切にしたい力の一つです。この性質を、両親に共感してもらえないこと、理解してもらえないことが、自己肯定感の低さにつながっていると感じます。
「頑張ればできるはず。」「能力に伴った心の強さがない。」「学校を休むのは、いじめに負けを認めること。」母は、戦士のような激しいタイプの女性だったので、繊細さから、疲れすぎて学校を休みたかったり、人の感情に影響されたりする私に、頑張れ頑張れと言い続けました。「あなたはできるんだから、力があるんだから。負けちゃダメ。」そうしたメッセージを受け続けました。
いつの間にか私の心はボロボロになり、家出同然に実家を離れるしかありませんでした。
自律神経失調症、アダルトチルドレン、愛着障害、摂食障害、自傷行為、うつ病、適応障害、全て経験済み。
それでもなんとか、HSPの自分が生きていける道を、やっと見つけることができてきています。
そして、娘もやはりHSC。やはり、私はまだ、HSPとまだしっかりと向き合えていないのだということ、最近実感するようになりました。そして娘もためにも、もっと理解を深めなければいけないようです。
2ダイエットとHSP
産後、体重が増えたことと、退職前に適応障害になったことで、今は人生で一番体重が重くなっています。疲れやすさが増してきているし、見た目が残念になってきているので、何とかここで踏みとどまって、体を軽くしたいのですが、一向にうまくいきません。
若い頃、ダイエットに成功していた時もあるのですが、あればダイエットではなく摂食障害を患っていたのではないかと、思います。過食嘔吐していた時が、一番痩せていました。
特に、適応障害に陥ってからは、痩せようとしても、そわそわした気持ちになり、うまくいきません。スポーツジムにも通ってみましたが、人の多さに、気分が落ち込んだり、ストレスを感じたりすることで、通えなくなってしまいました。トレーナーさんと、会話しなければいけないことも、嫌で仕方がありませんでした。誰かに突然話しかけられるかもと思うと、恐怖心を感じます。イヤホンをして身を守っているのですが、それでも、気さくに、話しかけてくださる、スタッフの方もいらっしゃいます。
そして、太っている自分に自己嫌悪を感じているというのに、「もっと〇〇しましょう。」「食事制限していきましょう。」と言われると、自分を否定され、変えなければいけないような感覚になって、とても拒否したい気持ちになりました。トレーナーさんは、お仕事として、アドバイスをしてくださっているのに、私の心に複雑な感情がたくさん溜まっていきます。それは、ネガティブな感情が多かったように思います。結局コロナを理由にして、辞めることにしました。「嫌になったから辞める。」と本心が言えないところも、HSPの特性があるからかもしれません。辞めると告げられた、相手の感情が気になって仕方がなくなるのです。当たり障りのない、理由があることが本当に救いでした。
そういえば、私は、娘と一緒であれば、楽しく外出ができるところがあります。娘との世界を作っていれば、大丈夫という気持ちになります。自分1人で、誰かと会話しなければいけないと思うと、ストレスを感じてしまうようです。
ダイエットの最大の敵は、私の怠心が1番の原因だと思っていました。昔は運動も好きだったのに、今は億劫です。辛いことも頑張れたはずなのに、今は無理が効かなくなっています。
この本の著者、長沼先生が書いておられますが、ダイエットの最大の敵は、「自己否定」や「自己嫌悪」などの感情だそうです。やめられないのは、自分の意思が弱いせいではなく、自分に対するネガティブな思い込みや抑圧が大きな原因だということです。
ジムに通っていた時、運動すれば気持ちはスッキリするのですが、それ以上に鏡に映る自分の姿を見て、「こんな体型の自分はダメだ」「カッコ悪い」と思ったり、運動がすっかりできなくなっている自分のことを「情けない」と思ったりして、自己否定をするようになっていきました。
だとすれば、体重が減りにくくなります。ストレスを感じた私の頭の中では、ストレスホルモンが放出され、「幸せホルモン」をよりいより一層求めるようになったからです。その幸せホルモンを得る方法の1つは「食べること」。食事量は、確かに、減らせなかったように思います。
さらに、HSPの人は、ベースとして自分を否定する土台が固まっていますし、ストレスも感じやすいので、たくさんの「幸せホルモン」を必要としていたように思います。
適応障害の症状も出ていた時だったので、私の頭の中には、特に「幸せホルモン」が欠乏していて、特に「チョコレート」が無性に食べたくなることが多かったように思います。
この本では、全体の6割がHSPの自己理解と自己需要、それに伴う脳の仕組みなどを解説しています。ダイエットのハウトゥーについては、最後の4割ほど。それがHSPの人に負荷がかからないように、理にかなった方法が書かれていたので、ダイエットを成功させることができると感じました。
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3第一章スペシャル対談 HSP臨床医・長沼睦雄×ダイエット専門医工藤孝文
まず驚くべき話題は、「痩せたい」患者さんの多くは、HSP気質の傾向があるということです。
理解しておくべきことは、HSPは病気ではないということです。そして、性格ではなく気質だということ。
周囲の目を気にしすぎてしまう、失敗をいつまでも引きずってしまう、というHSPの気質が元で、自己嫌悪に陥り、人間関係が苦手であるという性格が形成されます。ストレスにさらされ続けた結果、気分変調症、不安症、強迫症、解離症、自律神経失調症、慢性疲労症候群、などさまざまな精神症状や身体症状が現れたり、過食や自傷、ギャンブルや買い物、ゲーム、スマホ、インターネット依存などの嗜好行動が出てくる場合があるようです。
4第一章を受け、私が経験した精神症状や身体症状、嗜好行動について
幼児期・小学校では
私の場合、人の期待、気持ちをかなり敏感に察知する力が高かったので、常に、母親と担任教師の希望に沿うように、努力し続けていたように思います。必死に「いい子」になろうとしていました。どんな発言をすれば親や教師が喜ぶか、を基準に、話すこと、行動を全部コントロールしようとしていました。
期待通りにできなかったらどうしようというプレッシャーもかなり強かったように思います。幼稚園の年長で、ページェントという劇をやったのですが、主役に選ばれた時、当日の前に胃腸炎になって、油物が1週間食べられなくなる経験をしています。幼稚園児で、ストレス性の胃腸炎になるのは、珍しいケースではないかと思います。
小学校の中学年の頃、選抜の音楽発表会があったのですが、選ばれていたスネア担当の人が、病気になり3、4日学校を休むことになりました。その時、ピンチヒッターにみんなから選ばれて、練習に参加。何とか覚えられましたが、発表会当日、スネアの音色が練習と違って、チューニングがかなり緩く設定されていました。本番当日、叩いた瞬間に自分の叩いた音がものすごく大きく響いて、小さく叩いても、おかしな音が出ることにパニックになり、失敗してしまったことを、今でも覚えています。先生に、後から「先生が悪かった」と背中をさすられて慰められたのを覚えています。期待に応えられなかったことが苦しくて仕方がありませんでした。
これは、やりたかったわけでもない、ピンチヒッターになり、おかしな設定のおかげで、散々な失敗体験になったという、今でも胸がキュッとなる思い出です。ステージの上で、反響して音が聞こえたこと、いつもと違うことに対応できなかったことを考えると、音に過剰に反応していたのかもしれないと、考えることもできます。これは、HSPの特徴の一つです。
親の期待、先生の気持ちを読み取ることが全てですから、そこに全ての神経を使って、生活する日々が、4年間続きました。
また、4年間同じ担任だったというのも運命的なのですが、それにより、先生の参謀のような存在になっていて、周りの友達とは対等にどう過ごせばいいのかさっぱりわからなくなっていました。
本当は、自分より頭がいい子がいるのは、わかっていたのです。いつも図書室に行っていて、好きな本をたくさん読んでいた、眼鏡をかけた女の子がいました。大人が読むような本をたくさん読んでいました。その子の勧めで、私は1冊「はじめて物語」というミヒャル・エンデの本を読みました。ものすごく時間をかけて読んだことを記憶しています。
本当は、賢くない自分を自覚しながら、期待に応えために優等生を演じ続ける日々が続き、本当の自分はなんなのか、分からなくなる解離症状が出始めていました。
思春期になると、恋愛でも異常な行動を起こすようになっていたように思います。
好きになられると、自分も好きなのではないかと感じるようになるのです。そして、愛着障害の要素も持っていましたから、「好きなら助けて」「好きなら不安を消して」異性にそうした想いを抱くようになります。相手から、重たがられることが多くなるのですが、「私はこの人のこと、本当は好きではなかかったのではないか?」という不思議な感覚になることばかりでした。もう10歳位を超えると、自分の感覚が自分のものなのかどうかも分からなくなっていて、大混乱の始まりでした。
周囲からは、恋愛に早熟な人に見えたかもしれませんが、私としては、「誰かに助けて欲しかった」だけなのです。そして、徐々に、ここではないどこかへ連れて行ってもらいたいと、願うようになっていきます。
初潮を迎えた時、母が喜んでいないことが分かりました。母が、いつまでも子供のように可愛らしくいて欲しいと思っている気持ちを察することができました。
どのように、成長していけばいいのか、さっぱり分からなくなっていきます。
中学校では
中学生の頃、学年中の女子に口を聞いてもらえない時期がありました。私と話してはいけないという決まりが、クチコミで流れていたそうです。男子も同じく、その空気に同調していました。男子からは、ランニング中に、陸上のラバーマットの下敷きにされて、そこから出れないように、上に何人もの男子が乗られたことがありました。幸い、ラバーマットの厚みのおかげで、痛みはありませんでした。私としては、どう反応するのが正解なのかが分からず、脱出できた後に、ランニングを続けただけなのですが、その反応が予想外だったようで、いじめても面白くないと感じたのか、その後、そこまでの大きな行動をとったいじめを受けることはありませんでした。
学校で、口を聞いてもらえないことは、話しかけられることが好きではなかったので、そこまで傷つくことはなかったですが、この状況に耐えているのだから、そっとして欲しい気持ちがあるのに、クラスでは、立候補もしていないのに学級委員にさせられたり、先生からは生徒会長にならないかと声をかけられるなど、頑張ることを求められることもあって、ストレスがどんどん高くなっていきました。
本当に、疲れていて、休みたかったのです。休みたいと、母に相談しましたが、「休んだら負けを認めることになる。あなたは悪くないんだから、休んではいけない。」と言われて、死んだような心で卒業式まで通い続けました。
髪型も、自分の意思で決めることはできませんでした。
ワンレンの長い髪でいることが母の希望でした。
洋服も、流行りのものは切ることができませんでした。
下着も、可愛いのは選べず、スポーツブラであれば買ってもらえた記憶があります。
この頃から、耳鳴りや真っ直ぐ歩けなくなるなどの自律神経失調症の症状が出るようになっていきます。
高校では
私の希望は、女子校に入ることでしたが、母の希望で地域のトップ校を受験することになりました。高校受験でも、いろいろあったのですが、そこは省略して身体症状について話していくと、陸上競技部に入っていて、運動ばかりしていたので、体は健康でした。心理的に、無理をしている部分があり、食欲があることで、太り気味の傾向はあったように思います。中学から、祖父母と同居が始まるのですが、祖母も私のために夕食を用意し、母も作るので、2回夕飯を取ることもあり、太る原因となりました。どちらの気持ちも考えてしまい、拒否することができませんでした。
母の機嫌がこの時も、第一優先でした。私は入学してから、ダンス部に入りたいと思ったのですが、入学前のある日、中学の陸上部の先生に挨拶しに行こうと、母に言われて、連れて行かれたことがありました。挨拶をしてしまった手前、入部しなければならないという気持ちから、憧れの気持ちを封印することにしました。
私が、男の子のように、運動をしていれば、母の機嫌は良いのです。女の子らしいことをしようとすると不機嫌になります。
3年間、馬鹿になりきりました。陸上しかしませんでした。勉強は、中学まではよくできたのですが、トップが集まる高校であったということもあり、内容についていくことも難しくなっていました。不思議なことに、このくらいから頑張る気持ちが持てなくなるのを感じるようになりました。自分のために努力することが、できなくなってきています。陸上部でも、リレー競技では力を発揮できるのですが、個人のレースとなると、勝ちたい頑張りたいという気持ちが全くなくなり、どうでもいいという心理になるので、成績を残すこともできませんでした。本当に、自分のこととなると、どうでもよくなっていたのです。
母の希望を叶えるために自分は生きているのだと、薄々感じ始めるようになってきています。優等生になることはこの学校では不可能でした。極端に勉強しない、お馬鹿さんキャラになることで、自分を守っていたのです。母は、それでも喜んでいました。母が憧れていた、高校に、私が通っていたからです。高校のネームが入ったジャージを、親戚に自慢していた姿を今も覚えています。
進路のことは何も考えずに、3年の冬まで試合に出ていました。
ふと気づくと、周りは未来のことを考えていて、やりやい夢のために努力をしていました。とても取り残されている気持ちになり、高校の先生に勧められてた教員養成の大学に見学に行くことにしました。
浪人生では
浪人生の時は、自分のために努力する気力もなくなり、勉強にも身がはいりません。本当に教員になりたいのかというと、そうでもないのです。「いなければならない。」ということしか頭にはありませんでした。
浪人生の時にお世話になった先生の紹介で、芸術系の大学の推薦をもらえる話が出てきました。私は、芸術関係に進みたいという想いを感じていたので、そこを受験しいたいと親に申し出ました。
そうすると、母が倒れて、救急車に乗せられる出来事が起こりました。ほとんど関わっていない父親に「お母さんを困らせるな」という電話を受けたことで、また、心を奴隷のように縛り付けて、教員養成学科を受験することを決めました。
家では、母と喧嘩が増えてきたように記憶しています。罵り合ったり、罵倒したりするようになっていました。
大学では
入学してすぐに、量の募集があることを知り、すぐに申し込みました。寮に入れば、落ち着いた生活ができると思っていたのですが、共同スペースから、呼び出されることが多々あり、生活に介入されることがとても嫌だったので、そこから、すぐに、バイト先で知り合った男性の家に入り浸るようになりました。
大学では、自分のペースで過ごせると思っていたのですが、同じ学科内で、サークル活動のように仲良くしなければならないイベントがたくさんあり、そこからどんどんフェイドアウトするようになりました。その辺りで、自分は好きな色も決められない。母親の好きな色しか答えられない自分に気づき、ショックを受けた記憶があります。
それをきっかけに大学の心理士に相談しに行きますが、そのカウンセラーが目を一回も合わせてくれなかったことで、不信感を抱き、話をすることをやめてしまいました。
ある時突然、正門から一歩も入れなくなり、不登校になりました。
その頃から、リストカットをするようになりました。摂食障害、うつ病も発症していました。
回復までの道のり
その後、20年近くかけて、回復していくことになるのですが、それについては、次の機会でお話ししようと思います。
自分のHSPの特性に気づかず、目を向けず、本来の自分を生きないでいると、長沼先生のおっしゃるような、【ストレスにさらされ続けた結果、気分変調症、不安症、強迫症、解離症、自律神経失調症、慢性疲労症候群、などさまざまな精神症状や身体症状が現れたり、過食や自傷、ギャンブルや買い物、ゲーム、スマホ、インターネット依存などの嗜好行動が出てくる場合がある】という状況に陥ります。私の場合、幸福を感じながら生活ができるようになったのは30代後半になってからです。それまでの人生、不安と苦しみを感じながら生き続けてきました。HSPという特性を持った人がいることが世の中に知られていき、その繊細さが認められやすい世の中になって欲しいと願っています。