消えてほしい相手は、あなたの心に生きている
今日は、共感について考えていきたいと思います。
共感とは、心理学辞典によると
ということです。
自分のことのように、他者のことを考え、感じ、理解する。それが共感であるという説明が続いています。
共感といえば、他者に向けた感情や行為であると私も認識していました。
最近痛感するのは、「自己共感」の大切さ。
自分に利害のない相手、自分の感情が揺さぶられない、ある程度距離を取れる相手には、
比較的、簡単に共感力を示すことができます。
私は小学校の教員をしていた時期があります。
小学校の教員として、子どもに共感するのは役割。自分の仕事と心の底から思っていたので、
共感を示すことは苦ではありませんでした。
また、保護者に対しても、共感を示すことは仕事のうち、自分の役割だと思っていたので、負担に感じることなく需要的に話を聞くことができました。
それは、例えば「あの教員は、教員失格だ」というような過激な発言をされる保護者の方だとしても、
「そう言いたくなるほど、心が苦しいんだな。子育てに悩んでいるんだな。」と
感じ、理解を示すことができました。
保護者対応が辛くて悩む教員もたくさんいますが、私の場合は、攻撃的な言葉を向けられたとしても、
それも仕事のうちだという認識なので、
丁寧に聞き取りを続け、解決までどのような子どもにも、保護者の方にも寄り添うことができました。
同じく、一般的に見ると問題行動を繰り返す児童に対しても、
その裏にある想いは何か、ということに心から興味を示し、
決めつけることなく、声をかけ続けることができました。
苦手意識を感じるような子どもとは10年間、出会っておらず、年度末には必ず、このクラスから離れたくない、
この子ともっと一緒に過ごしたい。
そういう感情が湧くようなクラス経営や、児童理解ができていたように思います。
子ども側からの評価は分かりませんが、私の気持ちは、いつも子どもに対して前向きにな感情を抱き続けることができていました。
同じようなスタンスで、誰に対しても共感力を示せれば良いのですが、
同僚に対しては、同じ共感力を示すことができません。
私の基準から見た勝手な判断で、
「あの先生は、子供の気持ちを大事にしていない。改善すべきだ。」
「あのような威圧するような声の掛け方は間違っている。指導されなければならない。」
そういった思いを抱くと、その対象となる先生に、全く共感することはできず、
消えていなくなってほしいと思うほどに、
嫌悪感を感じるようになってしまいます。
それは事実かどうかは、違うと思います。
本当に、間違っているとは決められないことです。
私が勝手に、許せない!と思ってしまうというだけで、
それが真実かどうかは別問題です。
「許せない!」「いなくなれ!」という感情を、言葉に発することはしませんでしたが、
やはり心の内面は現実を作るというように、
私は職員室、同僚の中で、
仲間を作ることがいつもできませんでした。
どこか浮いてしまいます。
教師であるのに、職員室の中にいる他の教師が敵に見えてしまうことがありました。
それはどうしてか。
やはり、先生、仲間、同僚というものに対し、
私が多くのことを期待していたからではないかと思います。
「許せない!」と思うのは、
もう相手と自分の間に、安全なスペースはありません。
相手が自分に影響を与える危険な人物に思えてしまっています。
理由は、
「インナーチャイルドの叫び」
子供の頃の私は、
先生には、いい子をしすぎている自分に気づいてほしかった。
先生に、いい子をさせられ、教科書の代わりに扱われている状況、期待に応えることで
必死だったので。そんなこと、させないでほしかったという根深い恨みを持っています。
中学の時、学年中から口を聞いてもらえなかったり
高跳びのラバーマットの下敷きにさせられるようないじめにあった自分を
どの教師も助けてくれなかった
いじめはダメだと言いながら
いじめを黙認していた
教師のくせに、職員室でも発言権のある強い教師と弱い教師に分けられ、平等ではない空間を作っている。
間違っている。
許せない。
裁かれるべきだ。
もうこれは、自分の感情がマグマのように噴出してくるので、
どうしたって、他の教員に対して、保護者に共感力を発揮していたようには
接することができません。
自分の湧き上がる感情にまみれ、ダメ教師レッテルを勝手に張ってしまった相手とは、
うまくコミュニケーションを取ることができません。
対象になる教員が、少なければまだしも、
結構な割合で現れるので、
心の中の重しのような暗い気持ちが蓄積されていき、
教員を退職するという選択を取ることになってしまいました。
現実的に、そういった勝手にダメ教師だと思う相手を
排除して、やめさせるというのは不可能です。
保護者からの3時間以上続いたクレーム電話にも、心が折れることはありませんでした。
児童養護施設や、他県への子ども病院の小児科医に、子どものことで面談をしに行くこと、朝出勤前に子供を迎えに行ってから登校すること、
さまざまなことがあっても、子どもや保護者のことなら
全部許せるのに、
どうしてもどうしても、教師のちょっとした不適切発言は許せない。
1番の問題は、その教師でしょうか。
いいえ。違うんです。
私の心の中の問題なんです。
私のインナーチャイルド、子供の頃の自分が、
「どうしてあの時、助けてくれなかった!わかってくれなかった!」
と叫び続けているから、
大人になって、自分が教師になった段階になっても
当時の先生のような人を見つけるたびに、
相手を消滅させたいと願うほど、嫌悪してしまうのです。
ここで必要になるのは、
自己共感。
私は、当時の大人に苦しさを分かってもらいたくても
わかってもらえないと感じていた、
寂しい感情でいっぱいの子どもの頃の自分の心に、気がついてあげなけらば行けなかったんです。
あの頃の小さな私が、先生たちを許してあげられなければ
教師をしている人間を、尊重することができません。
その想いは自分に返ります。
私は、教師を続けられなくなりました。
自分で自分にナイフを向けていたようなものです。
「ああそうか。嫌悪感を抱いていた教員にも私は、自分のことを理解してもらいたかったんだ。」
その本当の願いを知り、力が抜ける思いがしてきます。
相手を攻撃して痛めつけたいということではなくて、
本当の願いは、そんな相手にも、私は理解してもらいたかったんだということに気づきます。
これは、私の話ですが、
職場や仲間内などで
どうしても許せない相手や、
攻撃したい衝動を感じる相手がもしもいるとしたら、
あなたの心の中にも、叫んで続けている、蓋をしてしまった感情が
隠れているのかもしれません。
相手を罵るのを止めているわけではありません。
どんな感情も、
蓋をしては、後から吹き出してくるもの。
悪口大会を、信頼できる人の中でするのも大事なこと。
その上で、深呼吸をし、
同じような体験、同じような感覚になった過去が
自分になかったか、問うてみてほしい。
「ああ、そんなに辛かったんだ。」
「寂しかったんだね。」
「悲しかったんだね。」
「わかってもらいたかったんだね。」
置き去りにされてしまった、過去のあなたが心の中に、まだ生きているのかも。
今の大人になったあなたになら、
きっとその感情を抱き締めて、
癒してあげることができるでしょう。
私も、自分の中の心の声に耳を傾け続けます。
私も、人と繋がるために、
相手にだけでなく、
同じか、それ以上の共感を、自分に示すことから始めていくことにしました。